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 ディクシャについての方針

ディクシャについては賛否両論があるようですが、管理人は以前からOSHOの道ではないと感じており、この仙台OSHO瞑想会では扱わない方針とします。
ディクシャについては、OSHOグローバルコネクションからもOSHOの道でない旨の通知が来ています。以下は広島のNaropaのところに届いたこの通知をNaropaがこの瞑想会に転送してくれた文章です。

------ Naropaが転送してくれた瞑想会/瞑想センターへの通知 -------

グローバルコネクションから世界中のセンター宛に送られたメッセージをお送りします。
添付ファイルは原文と日本語訳を両方お送りします。急いでさっと訳しただけですので、どうぞ確認のうえ必要な部分があれば訂正の上、お使いいただけたらと思います。また明らかな誤訳がありましたら、どうぞOSHOインフォメーションセンターHiroshimaまでお知らせください。直ちに訂正いたします。
よろしくお願い致します。

Naropa,Bhuti

OSHOインフォメーションセンターHiroshima

******************

各センターの代表者へ

わたしたちは、ディクシャと呼ばれる(ヒンドゥの伝統的な儀式)プロセスをOshoのセンターで提供していることに関して、多くの人々が混乱をしていると聞いています。

わたし達がインドでディクシャを行っている場所から来た人々からの情報に基づいて受け取ったことというのは、単純にそれがエンライトメントの売り出しだということです。

参加者への『神聖なエネルギー』の伝達というプロセスは、添付ファイルにもあるように、まさにOSHO自身が止めたことでもあります。彼がこれをセンターで提供するように提案するなどということは、到底考えられません。

誰もが自分の選んだことをする完全な自由を尊重一方で、センターとしてのガイドライは次のようになっています。

「もしあなたがOSHOのセンターの活動ラインに沿わないことをしたいと思ったら・・
OSHOはこう言いました。『彼らが好きなことをするのは構わないが、わたしの名前を使わないように』」

ですから、わたし達にとって、OSHOのセンターという枠内でディクシャを提供するということが適切ではないということは明確です。

あなたがこれを理解してくれることを信頼して、仮にあなたのセンターで既にディクシャを提供していて、今後どのように対処していけばよいかというような情報が欲しければ、どうぞわたし達に知らせてください。あるいは、あなたのセンターを訪れる人で、このことをはっきりと理解していない人達にどのように働きかけたらよいかというサポートがもっと欲しい場合にも、どうぞ連絡をください。

愛を込めて

Vatayana

OSHO Global Connections



この文章に添付されていたOSHOの講話をNaropaが翻訳してくれた内容を以下に載せておきます。

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The Sword and the Lotus, Chapter 7, Question 1
(Jan 86, last mention of shaktipat.)


愛するマスター、
スピリチュアルなエネルギーであるシャクティパットとは何ですか。

最も理解すべき基本的なことは、唯物論は死んだということだ。物質はもはや存在しない。存在するすべてはエネルギーだ。
岩のエネルギーは、最も低い形態だ。もっとも休んでいて閉じていて、眠りこけている。それから植物の、木々の世界がある。それらはもう少し開いている。
それらは岩よりも、存在に対して用意がある。それらは太陽と、月と、星と会話する――そしてその会話はエネルギーの会話だ。それらはエネルギーを受け取り、エネルギーを与える。そしてこれが存在のエコロジー――計り知れない相互依存だ。あらゆるやり方で、至る所に繊細なエネルギーの移動が起こっている。
人間は息を吐くが、そのとき二酸化炭素と呼ばれるある種のエネルギーを吐き出す。息を吸うときにも・・酸素と呼ばれるまた別のエネルギーを吸い込む。木々はちょうどその反対を行う。それらは酸素を吐き出し、二酸化炭素を吸い込む。こうしてバランスが保たれている。
何百万というやり方でエネルギーが異なる有機体へと動いている。そして植物より高次なのは、動くことのできる動物だ。そこにはリンクがある。動けない植物もあれば、数フィート動くことのできる植物もある。何マイルも動くことのできる動物がいて、何千マイルも移動することのできる鳥たちがいる。この動きが彼らのエネルギーをダイナミックにしている。
これらはエネルギーの発達だ。そうしてこうした頂点に命を、動きのエネルギーを持つ人間がいる。だが、エネルギーの最も発達した形態である意識にまで到達できる者はほとんどいない。そして意識の在り方というのは、まさしく川の在り方だ。それは重力に従い下方に流れる。

あなたが尋ねている方法は、古来の方法だ。わたしはそれを用いてきた。しかし6年ほどはそうしていない、というのも、わたしはそれをよりよい形態へ、もっと目には見えない変容へと改良したからだ。その方法は、完全に弟子に依存している。そして弟子であるとき、あなたは「友人」という言葉を用いることができない。「友人」という言葉は、わたしの改良されたテクニックでのみ用いることができる。
古い方法ではマスターと弟子を使わなくてはならない。弟子は完全に明け渡さなければならない。傷つきやすくオープンでいなければならない・・あらゆる危険を冒して信仰を持たなければならない。もしもマスターが本物なら、彼が触れることで、特に東洋で神話学上第三の目を視覚化してきた二つの目の間の額に触れることで・・もし彼が第三の目に身体的な接触を行うと、そして弟子に完全に用意があると、明け渡して、受け取る用意があれば、そのときマスターのエネルギーが流れ始める。マスターは何も失わない、なぜなら、与えるほどに、宇宙それ自体から彼の存在にエネルギーが注ぎ込まれるからだ。彼は途方もなく報われる。だが、弟子がほんの少しでも躊躇していたら、ほんの少しでも閉じていたら、少しでも恐れていて、完全に明け渡していなかったら、彼にはどうすることもできない。その時には、何も起こらない。

第三の目にあるティカ・・ちょうど東洋の女性がこれを常に使っている、あるいは男性によって使うように勧められてきたのを思い出したのだが・・というのは、まさに第三の目がある場所につける赤くて丸い印だ。かれらは女性に「これはお前が結婚をしているという印だ」と説得してきた。しかし真実はそれ以外のところにある。それもまた、女性が男性の奴隷とされてきた長い歴史からのものだ。第三の目の上にある赤い印は女性がマスターからエネルギーを受け取るのを妨げてきた。エネルギーの色は赤だ。そして女性が額につけるように勧められてきたティカの色も赤だ。
もしあなたが額に赤い印をつけていたら、赤以外のすべての色は吸収されるというのが、色の働き方だ。赤は送り返される。つまり、わたしたちが世界で目にしているのは大変奇妙な現象だ。誰か青い服を着ている人を見れば、現実には、そうした服は青色ではない。それらは青色を映し返している。それらは太陽光線からの虹色のうち六色を吸収していて、青色だけを受け入れていない。青色が受け入れないために、それがあなたの目に映り、あなたには服の色が青く見える。しかしそれは大変幻想的だ・・それらは青色ではないのだ。
そしてこれがインドで何千年もの間使われてきた策略だ。それは彼らが色の仕組みを理解していたということを示している。第三の目に赤い印をつけることは、あらゆる色、あらゆるエネルギーを吸収できても、赤色のエネルギーだけは吸収できないということだ。マスターのエネルギーは赤い。それは血の色、命の色、温かさの色だ。
女性が弟子になるのを妨げるために、あるいはなったとしても、弟子としてあることの恩典を許さないために、非常にずるい策略が使われてきた。だから、もしあなたがティカを好きなら、何色を用いてもいいが、赤はやめなさい。それは美しく見えるかもしれないが、赤以外のありとあらゆる色彩を使いなさい。

マスターが弟子の第三の目に触れ、もし弟子に用意があれば・・そして稀にしか起こらないことだが、そうなれば素晴らしい・・その時には突然温かさ、命、意識の流れが、ある特別な意味からわたしたちが第三の目と読んできた場所を打ち始める。それは、もし開けば、あなたを見者にする場所だ。そうなればあなたは自分自身のことを、他人のことをもっとはっきり、もっと明瞭に見ることができるようになる・・そしてあなたの全人生が新しいヴィジョンによって変わり始める。
しかし、わたしはシャクティパットという方法を6年間行っていない、なぜなら、そこにはなにか欠点があると思うからだ。まず、弟子はマスターよりも低いところにいなければならない・・それをわたしは好まない。ここでは誰も低くはない、誰も高くはない。弟子はただ受け手でなければならない。彼は何も寄与することができない。彼はまた依存するようにもなる。なぜならマスターが触れたときのみ彼は大いなるエネルギーを、大いなる喜びを感じ、それ以外のときにはないからだ。

第二に、明け渡しというまさにアイディアがそもそも難しいからだ。そして完全な明け渡しを求めるというのは、不可能を求めることだ。人間というものを考えなければならない。相手は人間だ。できないことを求めるべきではない。何かができずに非難されれば、彼らは開いていないということに、完全に明け渡していないということに、マインドに疑いがあるということに罪の意識を感じ始める。それで罪悪感が作られる。明け渡しの代わりにあなたは罪悪感を作ってしまった。
6年の間、わたしはより洗練された方法を見つけようとしてきた。そしてそれを見つけ出した。おそらくそれらがかつて用いられたことはなかっただろう。だがそれらはより上品で、文明化して、より人間的になった。例えば、わたしがあなたに話しているとき、わたしはあなたに明け渡すよう要求してはいない。わたしはあなたに開くよう要求してはいない、わたしはあなたに何も求めてはいない。だが、わたしが話すのを聞いているだけで自動的にこうしたことが起こる・・あなたがそうする必要はない。
エネルギーは、その人に触れなければならないような、何か肉体的なものではない。それはただ、その人の目を覗き込むだけで起こる。ただ身振り、言葉と言葉の間の沈黙だけで起こりうる。こうしたやり方では、何も求められないのに、より多くのことがたやすく起こる。

第二に弟子が奴隷である必要が、精神的奴隷である必要がなくなる。彼は友人になり得る。そしてわたしの感じでは、あなたは誰よりも友人を信頼することができる。
友情は愛の最も高次な開花だ。愛におけるあらゆる原始的なものが落ち、芳香だけが残る。そして芳香は肉体的な接触がなくても届くことができる。この六年というもの、わたしはそれがより大きな規模で起こるのを何度も何度も見てきた。あなたがエネルギーを待っているのでも、エネルギーに対して用意をしているのでもない――予期せずして、それは驚きとしてやってきて、あなたのハートを満たす。
古いやり方では明け渡しが求められた。新しいやり方では、より人間的でより自然な、愛に満ちた友情だけが求められる。古いやり方では明け渡しがすべての基礎だった。しかし覚えておきなさい。誰であれ明け渡せば、あなたはその人に対する恨みを持つようになる。イエスのもっとも卓越した弟子のひとりであるユダが彼を裏切ったのは偶然ではない。マハヴィーラの義理の息子は彼を裏切った。仏陀の従兄弟のデヴァダッタは彼を裏切った。それは例外ではなく法則だ。こうした人々は明け渡したかもしれないが、しかし何らかの躊躇があったに違いない。

例えば、ユダの場合だが・・彼はイエスよりも教育があり、より洗練されていて、より哲学的な知識を持っていた・・それが自分よりも物事を知らない男に明け渡し忠誠心を持たなければならなかった。何かが彼の中で疼いていたに違いない・・「何とかしなければ、仕返ししなければ。」
マハヴィーラの義理の息子は・・インドでは、義理の息子が非常に尊敬されるという伝統がある。義理の父親でさえ、その足に触れなければならない。マハヴィーラの一人娘はサニヤシンになった。それで義理の息子は当然の成り行きとしてマハヴィーラの後継者になるだろうと思っていた・・「他の誰になれるというのだ?」 マハヴィーラが彼の足に触れたことさえあったではないか!
だがマハヴィーラはそれを望まなかった。というのも、コミューンにはより賢い、より光明を得た人がいたからだ。彼は義理の息子を退けてこういった「これは続き柄の問題ではない、あなたが僧侶になった時から、こうした続き柄については忘れるべきだったのだ」
彼は刃向いマハヴィーラを裏切った。
それでマハヴィーラは最も学のある、最もカリスマ性のある、大変影響力のある雄弁家  を選んだ。ゴシャラクはあらゆる方面で、多くの王たちに大変な力を持っていた。しかしゴシャラクはそれに慣れ、当然と思い込み、他人に権力を振るい始め、こう言い始めた。「わたしはマハヴィーラの後継者になるのだ。」
美しい話がある・・

ゴシャラクとマハヴィーラが共に日々の托鉢に出ていた。彼らは新しく芽を出したばかりの苗木のそばを通りかかった。ゴシャラクがマハヴィーラに言った。「師よ、あなたは全て、あるカルマの法則に従って起こるとおっしゃいます。さあ、この苗木については何とおっしゃいますか・・生き延びるでしょうか、どうでしょうか。あなたは博識でいらっしゃいます。あなたにはご覧になれるはずです。」
マハヴィーラは言った。「それは生き延びるだろう。そして青々と茂るとても大きな木になるだろう。」 ゴシャラクは苗木のところに行き、それを引き抜いて、投げ捨てて言った。「さあ、この木がどんなに立派に茂るか見てみましょう。」
マハヴィーラはただ微笑んで、彼らは村へと歩いて行った。
その間に大嵐が来て・・雨が降った。彼らが戻ったとき、マハヴィーラは彼にその苗木がまっすぐ立っているのを見せた。大暴風と雨がその位置を変えたのだ。それは再び土に根ざした。そしてマハヴィーラはこう言った「ゴシャラクよ、もう一度試してみたいかね? この植物はとても大きな木になるだろう。大いに葉を茂らせ・・美しい木になるだろう。お前にそのコースを変えることはできない。」
ゴシャラクは大変怒った。マハヴィーラは、この男は正しい男ではないと考え直した。「もし彼が私の生に対するアプローチを、私の全哲学を疑うのであれば、彼はわたしの後継者にはなり得ない。」
自分が後継者にはならないと知った瞬間、彼は直ちにマハヴィーラの五百人のサニヤシンを引き連れて反逆した。自分こそが真のマスターで、マハヴィーラはただの詐欺師だと宣言した。

私自身の洞察では、こうした人々は、明け渡しはしたが、彼らの存在の幾分かは明け渡さぬまま残り、仕返しをしようとチャンスを伺っていた・・そして遅かれ早かれそのチャンスは訪れる。
私は古い策略をあまり好まない。私はそれを用いてきた、というのも、それが有効なただ一つの策略だったからだ。しかし次第にゆっくりと、私はその欠点に、弱点に気づいた。それは数人の助けになるかもしれないが、より多くの人に害を与えてきた。そのとき以来、私はより微細な、より人間的な、もっと目には見えない方法を考えてきた。そしてわたしはそれを見つけ出した。それは機能している。非常によく機能している。ただあなたに話すだけで、同じことをすることができる。沈黙だけで、わたしの臨在だけで同じことをすることができる。
そしてわたしはあなたに何も求めていない。わたしが何をしていようとも、もしあなたが巻き込まれたら・・そしてそうなるだろう・・! あなたが、わたしが話すのを聴いていれば、あなたは引き込まれる。 わたしがあなたを見れば、そのときあなたは何もほかの事を考えることができずに、何かが伝わってあなたに火がつく。それはよりデリケートで、より微妙で、より高次の意識の層に適っている。
こうした観点で「友人」という言葉が使われうる。だが、最初のやり方ではない。
だからこそ、わたしは「友人」という言葉を主張している。
わたしはあなたに裏切られたくはない。
わたしはユダや、ゴシャラクや、デヴァダッタなど望まない。そしてわたしがあなたよりも高い位置にいなければ、裏切られるということもない。
わたしは途上にあって、共に歩く友人だ・・誰も高くなく、誰も低くない。わたしたちは互いを好きで一緒に歩いている! そして共に歩くにつれて、好ましさは愛になる。共に歩くにつれてわたしたちはもっと近づき、エネルギーそれ自体が伝達する。

これは今までには語られたことがないことだ。かつて試みられたことはない。わたしはこれを精神的な隷属の歴史から精神的な自由への明確な境界線にしたい。マスターがそれほどに自分の威信に自信を持っていて、より高くにいる振りなどする必要がない。要点が分かるかね?
誰かが高くにいる振りをするというのは、自分に自信がないから、自分の威信に疑いがあるからだ。
真のマスターのみが謙虚になり得る。
真のマスターのみが人間的で在り得る。
宗教の古いやり方は・・あらゆるやり方は捨てられなければならない。わたしたちはそれらに十分な時間を与えてきた。それらは人類を変容するのに成功しなかった。今やわたしたちは異なるやり方で働きかけなければならない。新しいやり方で。
わたしの感じでは、世界中には何百万という変容したがってはいるが、神の前で、マスターの前で辱められたくないと思っている・・自己尊厳を有する人々がいる。
私はそうした自己尊厳を持つ人々にドアを開いている。わたしたちは彼らの自己尊厳に触れるはしない。それは完全にオーケーだ。それが自然に消えて、よりより意識が残るかどうかは、あなたが決めればいいことだ。




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